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遊びの深さとは…

宇梶達也


 先日、新聞テレビなどで、幼稚園及び小中学校の教育要領・学習指導要領案が報道された。予想はしていたが、そのほとんどが小中学校のことで、幼稚園のことは新聞紙面の片隅に一握りくらいの記事で書かれているだけであった。「なにが幼児期からの心の教育だ!」と思ったが、無理もない。幼児教育は難しいのだ。簡単に文章にできるわけがない。でも、この「難しさ」がそのまま、興味関心の低さにつながっていると思うと空しくなる。でも、この「難しさ」が、そのまま学習指導要領を改訂しなければならない子どもの実態につながっていると僕は思う。かなり自信を持ってそう言える。理解されていないということを。だからこそわざわざ中教審が「幼児期からの心の教育」と言ってくれたのだ。
 数年前、実習生を受け入れたとき、その大学の先生が挨拶に来られた。子ども達の遊びの様子を窓の向こうに見ながら、その先生は「しかし、よく遊んでいますねー」と感心の意味合いが濃い言い方で言ってくれた。僕は、とりあえずの社交辞令と受け取って「はい」と照れた答えを返したが、数分間の会話の中で、その先生が社交辞令で物事を言う方ではないことを感じた。しかし「よく遊んでいる」という意味がいまひとつ理解できなかった。僕にとってはいつもの日常だったから。
 時々、様々なかたちで他園の保育、子どもたちの遊んでいる様子を見ることがある。設備・遊具の豪華な幼稚園の遊びの様子を見たとき、「あれ?」と思ったときがあった。子どもたちは、活発に動いているのだが、なぜか僕自身に響いてくるものがないのだ。たぶん、僕がその園の人間ではなく、子ども達の園生活の背景を知らないからだろうと思った。
 自分の園で子ども達の遊びを見ていると、その行動の意味がわかるだけに、他園の子どもの遊びを見るのと全然違うのだ。ジャングルジムに登っている場面を見ても、今までのその子の行動範囲など知っているため、生活の範囲が広がった生き生きしさ、獲得した自由感を味わっている様子まで感じることができ、単に表面的な「ジャングルジムで遊んでいる」とか「砂遊びをしている」という言い方とは、まったく見方が違うのだ。あらゆる遊びで言えることなのだ。これはこれで疑う余地はない。しかし…。
 「あれ?」と思った幼稚園と同じように設備・遊具のしっかりした他の園を見たとき、「あれ?」がなかったのだ。もちろん、その園の子どもたちの園生活の背景は知らない。でも、うちの園庭に流れている空気と同じものがあるのだ。すごく傲慢な言い方に思えるかもしれないけど、いい感じなのだ。「よく遊んでいる」のだ。
 例によって「難しい」のでうまく説明出来ないが先日ヒントをつかんだ。
 子ども達を園外保育に連れていき公園でわずかな時間遊んだ。滑り台を滑ったり、ブランコに乗ったり、走り回ったりと活発に遊びまわる子ども達。一見元気に見える。でも「あれ?」と感じた。あの設備遊具の豪華な幼稚園を見たときと、同じ気持ちになった。あの園の子どもたちの遊びは、公園の遊び方なのだ。その環境が自分たちのものになっていないように思えてきた。遊具に遊ばされているといって良いかもしれない。深さがないのだ。もちろん園外保育が無意味と言っているのではない。園外保育は必要。一応念のため。
 僕らは、園庭で保育をしている。遊んでいる時間は「休み時間」ではない。子どもの内面を探りながら、なにをしようとしているのか読みとりながら、言葉かけ・援助の仕方を常に考えている。子ども達の世界が広がるように。深まるように。「あれ?」と思ってしまった幼稚園の「遊んでいる時間」を休み時間と言ってしまったら失礼かもしれない。でも、あの時は確か10月だった。子どもたちは、その環境を知り尽くしているはず。子ども達の世界の広がり・深まりを妨げるもの、その環境を取り込んでいけないもの、そういう障害があったとするなら「その園の保育の考え方」と思ってしまう。
 思いっきり我田引水の文章になりつつあるが…、覚悟を決めてこのまま書いてしまおう。
 あの大学の先生、学生の実習先をまわりながらいろいろな園を見ているはず。「よく遊んでいる」の意味は、きっと僕が感じたことと同じだろう。僕は自信を持ってしまった。
 さて、「あれ?」と思ってしまった遊びと、うちの園庭での遊びの違い、深さの違いをどう言葉であらわすか。「深さなんだ!高まりなんだ!活発に遊びながらも黙々とした雰囲気!この空気が見えるだろう?」なんて熱く語ったら白い目でみられちゃうかもしれない。新聞記者でなくても、なんとなくわかったような言葉で書くことはできるだろう。公園の遊びと園庭の遊びの違い。僕はこう思う。誤解を恐れずに簡単に言えば、遊びの動機の違いだ。公園の場合、歩いているうちに目に入ってくる遊具を見て、面白そうだなと思って遊び始める。幼稚園の場合、「僕は今日あれをするんだ」という具体的なイメージを抱えて遊び始める。そして遊びが深まる。付け加えると、こういう時の子ども達は、目的を持って幼稚園に着ており、生活が充実して見える。
 これらのことを実感をともなうところまで理解して、新聞記者が記事を書いてくれるようになったら、それはそのまま世間の幼児教育の関心の高さとなり、僕は、教育がよくなっていくだろうと思う。
 幼児教育は難しい。「1+1は2だよ。わかった?」の世界ではない。僕は小学校もそんな世界ではないと思っている(生意気ですみません)。「難しい…」を隠れ蓑にいいかげん保育をしてはいけない。自分からいい加減な保育とわかってするひとは、まずいない。そうならないように謙虚でいなければ。謙虚は大切。子ども達に対しても。謙虚は腰の低いかたちを言っているのではない。受け入れる心情なのだ。うん、保育と同じ。腰の低い「かたち」を教えるのと、相手を受け入れる心情を育てるのと、どちらが難しいか。
 教育は時代と共に見直されていく面がある。それは必要なこと。でも幼稚園の世界にいる人間として教育要領の改訂を見ると「そういう解釈じゃない。こうなんだ!」という面がなきにしもあらず…感じられる。「この空気、見えるだろう?」なんて、説明していたら、また、きっと改訂されるだろう。その時は「深さをともなった幼児期からの心の教育」という言葉が出てくるかもしれない。難しい…。