
宇梶達也
私達大人が「遊び」という言葉を聞くと、どこか価値のない無駄なものと、とらえがちですが、幼児期の「あそび」は、大人の考える仕事や勉強と対比させていう「遊び」と違って、子どもの成長・発達に欠かすことの出来ない大切なものだと思います。
幼稚園の園庭で、大人は、1時間あまり、心と体を燃焼させるような遊びをすることができるでしょうか。滑り台を滑り、鉄棒で逆上がり、竹馬に乗ったら、砂場で山をつくる、それでもきっと、満足感は味わえず、ヤレヤレと思うかもしれません。子ども達は、毎日遊びます。滑り台は、ワニに食べられてしまうかもしれない危機一髪の場所でもあり、鉄棒は技能の限界に挑戦する場でもあり、竹馬は、未知なる20センチ上の世界を見せてくれる乗り物でもあり、砂場は、自分の想像する街を建設できるキャンバスでもあります。物の見え方、感じ方が大人と全く違うため、子ども達は、燃焼して遊ぶことができるのだと思います。
大人は、自分で考えたものを形にしてあらわした時、他人に見せることに恥ずかしさを感じることでしょう。子ども達は、絵にしても、造形にしても、砂場のケーキにしても、自分の考えを堂々と表現できる力を持っています。一人遊びに満足した子どもは、自分の作った砂のケーキを食べてくれる大人を求めます。毎年、ここから子どもと、家族以外の他人としての教師との信頼関係が始まるような気がいたします。そして自分以外の他人から自分の考えが認められたとき、とても嬉しそうな表情をします。自発的に試みた経験や他人からの受け入れられた経験を通して、自分は何かできる存在だということに気づき、人格の形成をして行くようです。
鬼ごっこなどで、鬼から逃れるため走り回っている子ども達の姿を見ていると、年少児と年長児の違いは、単に速く走れるだけでなく、急に走ってる方向を転換したり、カーブの走り方に見ることが出来ます。これは、二年間長く生きているというだけでなく、日頃から走り回って遊んでいるかということが、この反射神経や平衡感覚などの運動神経の発達に影響しているようです。
夏になると雨ドイをつなげて、水を流す遊びが見られます。水が流れて行くだけで子ども達は、心をときめかします。あのときめきが私達の生活の中にあるか考えると、羨ましさを感じます。雨ドイの高い所から低い所に向かって水が流れるということを知ったのは、ニュートンを知らない彼らにとって、数日前の出来事なのです。そんな「ときめき」のあふれた世界に彼らは、住んでいるのです。
竹馬・一輪車に挑戦する子ども達。何度も繰り返し練習すれば、出来ないことでも、出来るようになるという技能を身につけるための基本的な態度を学んでいます。
泥のダンゴを作っている子どもを見かけたら、ダンゴの表面のすべすべした感触を競い合ってみて下さい。子ども達は、粗い表面に粒子の細かい砂をかければすべすべになることも、乾燥すれば色が変化することも知っています。そして、その貴重な粒子の細かいサラサラ砂を、採集する技術と根気を持った者だけが名人と呼ばれます。
子どもの遊びの中で育つものは、運動能力、社会性、知的能力、創造性…、と羅列すればきりがありませんが、生きる力と生きている喜び、内に秘めた能力と感性を総合的に伸ばすことが出来るのが、子どもの遊びだと思います。子ども時代の遊びは、将来の勉強が出来るようになるための能力を育てる場でもあるのです。人間の成長には、その時期に獲得して行かなければならない課題が、あるようです。その課題を獲得し損なった場合、あとから埋め合わせをしたりして思春期の問題行動に現れるようです。それらの行動は、自分の存在を確認し直しているのかもしれません。
小さな子どもは、外で遊ぶとき、お母さんに見守られている安心感を得てから遊び始めたことでしょう。幼稚園も子ども達にとって安心感のある場所でなければなりません。保育者は、子ども達が自発的に遊び始めるような雰囲気づくりと環境づくりに心掛けております。そして、子ども達が、何をしようとしてるのか、どの能力を伸ばそうとしてるのか、その内面を読みとり、それが実現できるように遊びを援助し、発展させていくことが、保育として大切なことだと考えています。