
宇梶達也
「信号機の赤は右にあるか?左にあるか?」と聞かれると、毎日見ていてわかったような気になっていても、実はよくわかっていないことに気がつきます。「どうなっていたかな…」と、自分から心を動かしてみることによって、はじめて、確かな認識になっていくのです。保育のなかで「子どもを見る」ということにも同じことが言えます。遊んでいる表面的な姿よりも、何を楽しんでいるのか、何を感じているのかという部分に保育者が心を動かしていくことによって、子どもを理解していく手がかりを得ることができると思うのです。
年長組がサッカーをしている。その横で年中組もサッカーをしている。よく見ると、年長組は、ゲームを楽しんでいる。そこには厳しいルールもある。保育者は審判のような役割を求められたり、助っ人プレーヤーとして、遊びに入ったり、となります。年中組も同じサッカー。でも保育者の役割は、子どもたちが何を楽しんでいるのかで、かかわり方が年長組の場合と違ってきます。「ゲームやルールより、サッカーごっこ?…。ならば厳しいルールを要求したら野暮になる。ボール蹴りごっこが成り立つようにかかわろう…。ん?これは、自分達がもうすぐ年長になることを意識した、あこがれの年長組ごっこのつもりもあるのかな…。ならばそういうことを意識した活動を今度取り入れてみよう…」などなど。
子どもが、困ることをしたとき、表面的なその行動をとがめるだけでは、なにも問題は解決しません。「どうして、したのだろう」というところを感じるのが保育者の仕事です。保育として子どもの内面に心を向けていくには、専門職としての知識が必要です。その知識が子どもを見ようとする、保育者のアンテナの感度を増していくのです。机の上の勉強と現場は違うというあたりまえの言葉は、学ぼうとしない言い訳によく使われます。教師自らの心を子どもに向けていくことは、学ぼうとする態度そのものです。それを怠った教師は、一番簡単な表面的な部分しか見ることが出来ず、それをきちんと教えていくのが教育だと思っているのです。
僕は日本の幼児教育への関心の低さを嘆いています。でも、生意気な若手園長として勝手を言わせてもらえば、それは幼稚園界自らが蒔いた種と思えてきます。幼児教育に携わる人間が、当然のようにもっと勉強し、誇りを持ったら、この国の子どもたちは必ずしあわせになります。そう自分に言い聞かせて、今年を過ごそうと思っています。